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2009年6月15日更新 |
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
観音さま(観自在菩薩)は悟りに至る智慧を完成する修行をされ、
物も心も幻のようなものだと理解することで、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。
(そして、観音さまはお釈迦さまの弟子の舎利子(シャーリプトラ)に次のように説かれました。)
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子よ、本当にある物だと思っているものは幻に他ならないのですが、
真実なるものは見えている物を離れて存在するわけではありません。
物の本当の姿は移ろいゆくものであり、真実なるものが物の背後にあるのです。
これは物についてだけでなく、感覚やイメージ、意識のような精神的なものについても同じです。
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
舎利子よ、すべての物事は幻なのですから、生まれることも滅することもありません。
汚いとかきれいということもありません。増えたり減ったりすることもありません。
そう思い込んでいるだけなのです。
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
物もなく、心もありません。五感で感じる世界もありません。
目に映る世界もなければ、こうだと考えている世界もありません。
このような錯覚を生み出す原因になっているものもなく、錯覚を取り除くものもありません。
老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。
悟りを得るための仏教の教義にこだわることも、悟りを得たと思うことも間違いです。
何ものにもとらわれないようにするのが良いのです。
菩提薩 依般若波羅蜜多故 心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
菩薩さまは、この智慧を完成されたので、すべてにこだわりがありません。
こだわりがないので恐れもありません。
誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に平安な心でいらっしゃいます。
過去・現在・未来の仏さまも、この智慧を完成されたために、この上なく正しく目覚められました。
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪日
ですからこの智慧を完成させる呪文は、
他に比べるものもない、最上の、すべてを明らかにする真理の呪文です。
すべての苦しみを取り除いてくれて、真実で偽りがありません。
ですからこの智慧を完成させる呪文を教えましょう。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
呪文
(完成された智慧よ、完成された智慧よ、完全に完成された智慧よ、
最高に完全に完成された智慧よ、その悟りよ、幸あれ・・・。 と訳すのは?)
「般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経」は、
「悟りに至る智慧(智慧の完成)の核心の教え」という意味になります。
「般若」は「智慧」、
「波羅蜜多」は「悟りに到達する」あるいは「完全な」、
「フリダヤ」は「心臓」で「核心」という意味です。
ただ、インドの原典にはタイトルはなく、このタイトルは中国でつけられ、
さらに日本でその前に「仏説摩訶」をつけました。
「般若心経」の「心」の字はそれを表しているといいます。
ただし、「心」は、お経の最後に解かれている「真言(呪文)」のことを指しているという解釈もあります。
この場合は「般若心経」は「悟りに到達する智慧の真言の教え」という意味になります。
「空」の思想
「般若心経」は小乗仏教を批判するかのごとく、大乗仏教の「空」の思想を説いています。
これは大乗仏教を象徴する観自在菩薩(観音様)が、
小乗仏教を象徴する長老のシャーリプトラに説くという設定にも現われています。
「空」の哲学的な意味は、すべてのものに実体性がないということです。
また、「空」の境地とは何事にもこだわりのない心のことです。
悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、と教えます。
煩悩の克服や悟りにこだわると、それが執着になってしまい、かえって悟れない結果になってしまいます。
こうしたこだわりをすべて捨てれば、おのずから「空」の境地がひらけ、
彼岸=悟り へ到達できるということでしょう。
玄奘三蔵の訳には「空」の思想を要約しているような、
有名な「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という部分があります。
真言の思想
お経の後半部では呪文(真言・マントラ)を称えています。
ここには大乗仏教のお経信仰 や後の 密教 につながる呪術的な側面があります。
「真言」というのは、お経の智慧 の本質を象徴する言葉のことです。
お経の智慧を理解していれば、「真言」を唱えることで、それを思い起こすことができると言います。
一般に「真言」は、その意味よりも 言葉の響きが重要 だとされますので、
「般若心経」の「真言」も訳さないことが多く、また、その本来の意味も良く分らないと言われています。