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2009年E月15日更新 |
中 国 仏 教 入 門
仏教メモ
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仏教(ぶっきょう)は、約2500年前(紀元前5世紀頃)にゴータマ・シッダールタ(釈迦)が
現在のインド北部ガンジス川中流域で提唱し、各地に広まり現在も続く世界宗教で、
キリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教の1つである。
仏教とは、仏(仏陀、覚者、真理に目覚めた人、如来)の宗教、
また仏(如来)になるための教えである。
個人が自ら真理(ダルマ)に目覚めて悟りを得る過程を重視し、
最終的に「自分として執着している自我は、実体はないものである(無我)」と悟り、
苦の束縛からの解放(解脱)を求める。
しかし、釈迦の死後、大乗仏教が創出され
彼を超越者と見る信仰が現れ、超常的な逸話も作られるようになり、
そこから阿弥陀仏や薬師如来などの超常的な仏の存在が求められるようになった。
他の世界宗教とは異なり、自然崇拝や民族宗教などの原始宗教を起源に持たちません。
当時のインドでは、祭事を司る支配階級バラモンとは別に、
サマナ(沙門)といわれる出身・出自を問わない自由な立場の思想家・宗教家・修行者らがおり、
仏教はこの文化を出発点としている。
発生当初の仏教の性格は、
同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、
従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られる。
仏教の教義はあらゆる生命の住む世界を「世間」とし、
そこでの生き方に関する教えと、それらを越えて悟りに至る教えとの二軸で構成される。
生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、
そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とするものである。
そしてそれを目的とした出家と修行、
また出家はできなくとも善行の実践を奨励することが特色です。
物事の成立には原因と結果があるという因果論を原則として、
生命の行為・行動(思考・感情も含まれる)には、その結果である果報が生じるとする業論があり、
果報の内容如何により、人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、
人々に悪行をなさずに、善行を積むことを勧めます。
また個々の生に対しては
業の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、
世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、
あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言いいます。
顕教と密教について
法華経は釈迦の最後の教えと言われています。
実際に生きていた人ですから、人々を現実に救うために説かれたわけですから相手により
教えも変わり矛盾も出てきます。
そういう釈迦を、大日如来が衆生救済のために現世にあらわれたお姿だと考え、
その教えが顕教であるというのです。
宇宙の真理そのものである大日如来の究極の教えは、顕教ではなく密教にあるといいます。
密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされます。
チベット仏教
チベット仏教は、チベットを中心に発展した仏教の一派。
大乗仏教の系統をくみ、
特に密教を大きな柱とすることから「チベット密教」と呼んで、同じように見なされがちであるが、
実際は顕教の諸哲学や上座部仏教的な出家戒律制度も広く包含する総合仏教である。
独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に準拠する北伝仏教と並んで、
現存する大乗仏教の二大系統をなす。
ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマ(転生活仏)を尊崇することから、
かつては一般に「ラマ教」(喇嘛教、Lamaism)と呼び、ややもすると、異質な宗教と見なす向きがあったが、
歴然とした正統仏教の一派であると自任するチベット仏教の本質が理解されるにつれて、
偏見を助長する不適当な呼称とされ、現在では推奨されなくなっている。
格義仏教
格義仏教(かくぎぶっきょう)とは、インドより中国へ伝来したサンスクリットで書かれた仏教の経典を、
中国古来の固有の思想、とりわけ老荘思想の用語を用いて解釈しようとした態度のこと。
伝来以来、東晋頃まで非常に盛んであった。代表者は支遁である。
しかし、釈道安が現われ、格義仏教では仏教本来の思想を正しく理解することが困難であり、
仏教の理解には仏教本来の解釈によらなければならない、という主張が広く認められると、
時を同じくして長安に来朝した鳩摩羅什による新たな大量の訳経と相まって、
格義仏教は一転して影をひそめることとなった。
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