バナー
本文へジャンプ 2009年6月15日更新 

 

中 国 仏 教 入 門


仏教の起源

仏教は、インドで発生した宗教です
日本では、
仏教の教えを受けた夫婦、恋人どおしは「生まれ変わっても、あなたと一緒になりたい!」と言います。
何かぐっと心にきますね!

これは仏教の「輪廻転生」を前提にした「ウパニシャド哲学」ですが、本当はそんなに甘い話ではありません。
絶対生まれ変わりたくなんか無いのが当時のインド思想です。
仏教を理解するには、「ウパニシャド哲学」をまず理解することが必要です。
そのためには当時のインドの思想を振り返って見る必要があります。

その前に中国での、儒教思想について
儒教の儒(じゅ)の起源については冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であるといわれています。
そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係しているようです。

紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムが儒の母体と考えられています。
そのシャーマニズムから祖先崇拝(祖先神・ご先祖さま)の要素を取り出して、礼教化し、
仁愛の理念をもって、当時、身分制度の秩序が崩壊するなどの社会混乱によって、
解体していた古代社会の、道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子である言われています。

春秋時代(紀元前770年 - 紀元前403年)、孔子(紀元前551年‐紀元前479年)は
実力主義が横行し身分制度の秩序が解体されつつあった、周時代の終わりごろ、魯国に生まれ、
周時代の初めの秩序への復古を理想として、身分制度の秩序の再編と仁道による政治を掲げた。

孔子の弟子たちは、孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家を形成した。
孔子と弟子たちの語録は、四書五経のひとつである『論語』にまとめられています。

日本では、『論語』を初めとする四書五経の教えが「道徳」になっています。
今日では西洋文化の影響で、身分と言う言葉は、あまり聞かれませんが、
親が上であり、子が下である。上司が上であり、部下は下である。年長者が上であり、若い人が下である。
身分制度は今日も生きています。ですから日本語は難しいですよ!
自分より年長の人に対しては、名前を呼ぶのに、必ず「さん」付けで呼びます。たとえば、
性で呼ぶのに、長野!と呼び捨てはダメです。必ず「長野さん」と敬称で呼びます。

本題のインドに戻ります。
インドでは、当時のバラモン教は祭式中心の宗教で、
儀式のやり方は秘伝としてバラモンの身分の者だけに伝えられていきます。
しかしバラモン者の中から、儀式だけでは満足しない者達が出てきて、
密林の奥深くに、こもって、真理の探究をするようになり、いろんな難行苦行をしながら、
修行者たちの中で、徐々に作られていった思想が、「ウパニシャド哲学」と言われます。

ウパニシャッドは、サンスクリットで書かれた一連の書物で、
一般には奥義書と訳され、約200以上ある書物の総称で、
このウパニシャド哲学が後のインド思想に大きな影響を与えることになります。

ウパニシャド哲学では、まずは人間の生死について、「輪廻転生」(りんねてんしょう)と考えます。
全ての生き物は生と死を永遠に繰り返すと考えます。
死んだら、またどこかで、なにか生命のある者に、生まれ変わるのです。(人間とは限りません)

生きて、そして、死んで、また、生まれ変わる。永遠に回転しつづける車輪みたいなものです。
ですから、ウパニシャド哲学発祥の地である現在のインドの国旗にも、
輪廻転生を象徴する意味で、国旗の中央に車輪(ホイール)が描かれています。

インド人は、死んで、そして又、生まれてくることを、苦と考えました。
(死にたくない気持ちも苦ですから)死ぬことが、苦しみなのは理解できますが、
インド人は(勿論、生まれてくる、赤ちゃんの誕生は喜びますよ!)
でも、自分が、再び生まれること、生きていることも苦しみと考えました。

なぜなら、生きて行くうえで、
飢饉、疫病、戦乱、天災など、あらゆる災難・不幸が人にはついてまわるので、
生きることは必ず苦痛を伴っているのです。
現代でも、世界中で、私の人生は、すごくつらい人生と思っている人は、沢山いると思います。

死んだ後、再び生まれてくる時、人間とは限りません。
答は、生きている間にどんな 行為(行い) をしたかで決まると考えます。
生きているという事は、何かの 行為 をしているわけで、その行為を「業(ごう)」といいます。

どんな業を積んだかによって、次の生が決定されます。
悪い業を積めば、蛇や虫けらなど、考えたくもないものに、生まれるかもしれない。
良い業を積めば、人間とか、つまり良い生き物に生まれ変われるのです。
でも、でも、たとえ、良い生き物、つまり幸せそうな人間に生まれ変わったとしても、
人生は苦なので、一番良いことは、二度と生まれ変わらないことです。
クルクル廻る、輪廻の輪から抜け出すこと、これが最高の望み・願いと考えるのです。
輪廻の輪から抜け出すことを「解脱(げだつ)」といいます。
ここまでで、「輪廻転生」と「業」、そして「解脱」を理解してください!

次に難しいですが、宇宙の真理です。
ウパニシャド哲学では、宇宙には真理・根本原理が存在すると考えます。
サンスクリットの「力」を意味する単語からきて、これを「ブラフマン」 (Brahman)といいます。
これを中国で漢訳したのが「梵(ぼん)」という漢字です。

「梵(ぼん)」は物質的宇宙の全体の背後にあるため、
理性により提供される物だけを使ってそれを説明しようとすると、人間の精神なんて、小さなものです。
梵(ブラフマン)は感覚を超えており、精神を超えており、
知恵と知性を超えており、想像を超えているのです。

修行者たちは、当然この真理「梵(ぼん)」を自分のものにしたいと思いました。
宇宙の根本真理「梵(ぼん)」を掴もう(つかもう)と、人である修行者は探すのですが、
簡単には探せません。探すのではなく、発想を変えて考えるのです!
冷静に考え、「人間の私」も宇宙の中の一部と考えるのです。
宇宙に根本原理があるならば、「人間の私」も宇宙の一部ですから、
当然、「人間の私」の中にも宇宙の根本原理が宿っているに違いないのです。

「人間の私」の中の真理を「アートマン」(atman、真我)といいます。
仏教書では「個人の根本原理」と書いています。
漢訳では「我(が)」と言います。

「梵(ぼん)」 は アートマン(atman、真我) と同一であるとし
私の中に「我」があって、それが「梵」と究極的には同じモノであるとウパニシャド哲学は考えます。
これを仏教書の漢訳では「梵我一如(ぼんがいちにょ)」と言います。

ここで又、問題です!
誰もが自分の中に「我(が)」を持っていますが、
人は、いろいろな物質や欲望によって心が曇っているから、簡単には自覚することは出来ません。

でも、何らかの修行によって、(この何らかの修行が重要になる)、
心の曇りを取り払い、自分の中に「我(が)」を見つけたら、
それは「梵(ぼん)」と同じなわけですから、二つは一体化します。

一体であることを「人間の私」が理解する。
その瞬間に「人間の私」は「宇宙」と一体となる。
一体となることは、自分が消えるということです。

強引な論法に思えますが、とりあえず、ここまでを理解してください!
もっと強引に話を進めます

自分が消える、ということは、前述した私の行為である「業」がなくなるということです。
自分が宇宙と一つになるのですから、私の行為というのも消えるのです。
前述したように、輪廻転生の原因は「業」ですから、
当然です!
私が消えることで、私の持っている「業」が消えますから、輪廻するものが無くなる。
これが解脱ということです。究極目標です。

この理論に基づいて、多くの修行者が「梵我一如」の実現のために修行生活をしているのです。
どうすれば、心の曇りを取り払い、自分の中に「我(が)」を見つけたら良いのかと、
色々な人が色々な方法を唱えるのです。

では仏教の話になります
仏教では、どうすれば、心の曇りを取り払い、自分の中に「我(が)」を見つけたら良いと
その方法を教えるのでしょうか?

孔子とだいたい同じ年代である、
ゴータマ・シッダールタ(釈迦)の説いた仏教とはどんなものだったか。
妙法連華経に詳しく書かれていますが
四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。

四諦(したい catvaari aaryasatyaani)とは、
仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、
現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいいます。四聖諦ともいいます。
聖諦とは「神聖なる真理」という意味であり、
よって四諦とは「4つの真理」の意味で、4つの真理とはそれぞれ、
1.人が生きるということは苦であるという真理 (ウパニシャドの基本です。)
2.その苦の原因は人間の執着にあるという真理 (苦しみには原因があります)
3.この苦を滅した境地が悟りであるという真理 (原因を取り除けば苦しみも消えます)
4.その悟りに到達する方法が仏道であるという真理(ここでは 簡単に原因を取り除く方法は
 八正道であります としておきます)
であり、これを順に苦諦・集諦・滅諦・道諦と呼び、
前二者は流転の因果を示し、後二者は悟りの因果を示します。

その八正道とは?
それは字の如く、八つの正しい道です。
八正道(はっしょうどう)は、釈迦が最初の説法において説いたとされ、涅槃に至る修行の基本となります。
1.正見(正しく見る)
2.正思惟(正しく考える)
3.正語(正しく話す)
4.正業(正しく行動する)
5.正命(正しく生活する)
6.正精進(正しく努力する)
7.正念(正しく思いめぐらす)
8.正定(正しい心を置く)

正しいと思うことを八つ言えば大体合っています!但し、実践しなければなりません。
釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるもので、
私たちの仏教の理解も、書物による知識ではなく、常に現実における実践を中心としなくてはなりません。

これが仏教の特徴で、仏陀は修行者などのような、死ぬほどの苦行を否定します。
修行者のように、苦行するのが当たり前の中で、
仏陀は苦行を否定して、理論によって悟る道を示しました。

インドの宗教に共通ですが、悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行している人だけです。
在家で、普通の暮らしをしている人は決して解脱できません。
中国や日本で信仰されている、在家信者も救われる仏教(大乗仏教)は、まだ この段階では存在しません。

在家の人たちの救いは、修行している僧にお布施をすることです。
自分自身は出家すらも出来ないので、当然のことながら解脱はできませんが、
解脱を目指して修行している人(僧)への布施(金や物品の支援・援助)をすることで、
良い業を積むことは出来ます。
良い業を積めば、今度生まれ変わるときに、
今より少しでも良い生活が出来る所に生まれ変わることができる。
そう考えるのです。
アジアでもタイ国は小乗仏教の国ですので、今でも皆、そう思って、日々の生活で実践しています。

では中国や日本などの大乗仏教ですが、何が違うのでしょうか?
本来の仏教(小乗仏教)は出家して修行しなければ解脱できません。
しかし、すべての人が日常生活を放棄して出家できるわけではないので、
多くの人々は、徳の高いお坊さんの傍(そば)にいたり、寺や僧などの修行者にお布施をしたりして、
良い業を積むことしか有りませんでしたが、
釈迦が死んだ後、在家信者も救われる仏教(大乗仏教)が生まれます。

仏陀が死んだ時、
修行を積んだ弟子たちは、この世の無常であることを知っているから、じっと悲しみに耐えています。
しかし、多くの在家の信者たちは、今の私たちと同じで、仏陀の高い徳を慕っていたので、
当然嘆き悲しみ、亡くなった仏陀に対して執着します。

仏陀のそばにいたい、いきたい、仏陀の遺骨を守りたい、・・・・・と思い、
在家信者たちは火葬した仏陀の遺骨を埋めて、その上に塔を建てます。
この塔を「ストゥーパ」(仏塔、石塔)と言い、仏塔にお参りしては
仏陀を偲ぶような形で、自分たちの、仏陀に対する思いを守りました。

仏陀の信者はインド全域にいたので、どんどん仏塔が建てられ、
その地下には分骨した仏陀の遺骨の一部を埋葬したと伝えられています。
この仏塔は仏教の広がりとともにアジア各地に広がっていきます。

話は変わりますが、
日本では、江戸時代、江戸幕府により、キリスト教を排除のため、すべての国民(庶民)は、
寺の檀家(信者)に帰属させられましたので、
近代国家になって、埋葬方法が、火葬になっても全く抵抗がありませんでした。
今では、全国的に火葬ですので、「ストゥーパ」(仏塔、石塔)と同じように、
自然石でお墓を作り、地下に納骨室をつくり、火葬した骨を壷に入れ納骨室に埋葬するのがほとんどです。

仏陀が死んだ後、
在家信者に共感する修行者や仏教理論家たちがいて、
彼らの中から「大乗仏教」なるものが生まれてきます。
大乗仏教の特徴は、在家信者も解脱できる大きな乗り物があることです。つまり、大乗です。
大乗で在家信者も悟りを得て解脱することができると教えます。

大乗仏教は、歴史上の実在した仏陀以外に、理念としての仏陀の存在を考えるようになります。
それでは、大乗は歴史上の仏陀自身の教えと違うと、異を唱える人が、昔も今もいます。
しかし「仏陀の教えが理論的に発展していったもの」と考えれば良いと考えるのです。
ですから、大乗も仏教です。

出家修行者だけではなく、大乗の教えでは、在家の信者も、「悟りの世界」、に行けますよ!
つまり彼岸(ひがん)に、載せていってくれる大きな乗り物がありますよ。と説いています。

これに対して出家者しか悟ることのできない従来の仏教を、大乗仏教側は傲慢(ごうまん)にも、
小さな乗り物、小乗仏教と言って蔑視します。(小乗仏教は、正しくは上座部仏教といいます)

仏陀が悟りをひらいた時、いったんは誰にも理解できないから、
仏法を説くのはやめようと思ったけれど、考え直して説法を始めますが・・・・・、
そのような仏陀であれば、在家信者を見捨てることもないはずです・・・・と考えたのです。
在家信者も悟りをひらけるまで、教えを説き続けてくれるはずだ、という考えが生まれるのです。

仏陀の教えを法、ダルマといいますが、
そのダルマそのものが仏陀である、と考えます。
宇宙の法則の中に、「永遠の仏陀」が存在している。

その為、大乗では「菩薩」(ぼさつ)というものを考えました。大発明です!
大きな乗り物=菩薩と思っても良いでしょう。
小乗仏教では、仏陀そのものを信仰しますが、
大乗仏教では、仏陀そのものではなく、菩薩を信仰します。

菩薩は悟る力があるのに、在家信者が悟りを開けるまで待ってくれます。
そして、在家信者が悟りを開けた時、
初めて菩薩も悟りを開く、そういう有り難い先生と言うか、
大きな乗り物の運転手が菩薩です。

経によっては、仏陀の化身だと位置づけている菩薩もあります。
時代が進むと、菩薩でなく「如来」(にょらい)も登場します。
(阿弥陀如来、大日如来・・・・・)

菩薩(如来)は現実にいるかもしれないし、しかし理念的、宇宙的な存在?とした菩薩もあるようです。
たくさんの菩薩(如来)が登場し、釈迦がその菩薩(如来)を紹介し、
それぞれ経の中で菩薩(如来)の役割、働き、ご利益なども説いています。

その経の解釈をめぐっても、時代により、いずれも偉い僧ですが、見解も異なってきます。
したがって、大乗仏教は、各人がそれぞれの経を読んで自ら理解し解釈してください。
仏に対する信仰とともに、菩薩に対する信仰も生まれて、色々な菩薩が考え出されました。
ですから同じ大乗の仏教信者でも、言うことが違ってきます。
でも、信ずるものが救われるのです。

ウバニシャドの考えを書きましたが、仏教は、個です、私個人の業です。
夫である私が、僧や寺に布施をたり、人に優しくするなど良い業をして、ご利益があっても、
妻へのご利益はありません。だから、冷たい言い方ですが、
妻も、ご利益が欲しければ、妻、個人として、良い業を行なうことです。
仏教では、八正道です。
人は人です。儒教感では叱られますが、他人の行為など、どうでも良いのです。
自分が正しいことをすれば良いのです。
ですから、非暴力、非破壊、非抵抗です。やさしい心、優しい行為です!

大乗仏教の理論を大成した有名な人は、
南インドの人(2世紀から3世紀)で、ナーガルジュナがいます。
龍樹(りゅうじゅ)と漢訳しています。龍樹菩薩とも呼ばれます。

お経は、本来、仏陀の言葉を弟子たちが伝え、それをまとめた物ですが、
大乗仏教は、仏陀が死んでから成立したので、
仏陀の言葉(教え)ではないと言えば、そういうことになります。

仏陀というのは悟った人という定義ですから、
仏さま(仏陀)=お釈迦さま(釈迦族の王子)=ガウタマ・シッダールタ(王子の名前)でなくても、
悟った人の言葉であれば、それぞれの悟った人の、経があって良い、という理屈になります。
ですから、数え切れないほど、たくさんの「お経」があります。

ならば、悟った人が書けば「お経」として認められるかと言うと、それは認められなく、
インドで書かれていることが条件です。中国で書かれた「お経」も、沢山ありますが、
仏教界ではインドでの原典が無い経は「偽経」といって偽物扱いが一般的です。

大乗仏教の、お経の著者は未だ不明です。おそらく
悟りを開いた、多くの仏教僧たちが、インドのどこかで、たくさんの大乗経を書いたのでしょう。

中国では仏教と儒教が合体して新しく「禅宗」と言う仏教宗派が生まれています。

本物の経であっても、中国で翻訳されるときに、中国の文化(儒学・儒教)で生活する僧が翻訳しますので、
ごく自然に、中国文化である儒学(儒教)や道教などの道思想が入った、
中国独自の「中国仏教」になったのだと思います。

恭仏院恭博